Mira&Luna's nursery lab

旅乙女と発明娘の子供部屋

電車内で暴言を吐き続けていた人に向けられた意外な一言に考えさせられました。

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「我見」
という言葉があります。

・歌舞伎や舞台などでは「舞台上からの視点」という意味。反対の言葉は「離見」。
・一般的には「自分だけの固執した考えや意見」というような意味。似た意味の言葉は「我執」。
仏教用語では、自分という常に変わらない実体があるという誤った考え。



先日電車に乗ったときに、中年の男性とその母親と思われる人が乗っていました。男性は心に病があるのかもしれません。辺りにいる人や、隣に座っている母親と思われる女性に向かって暴言を吐き続けていました。その言葉は理路整然とした独白のようなものではなく、ただひたすら似たような単語を繰り返して、世間と母親とを見下し蔑むものでした。

周囲にいた人は別の車両に移ったり、驚きの目で見たり、その男性の悪口を囁いたりして、誰もがいくらかの怒りや恐怖を感じているようでした。私たちも、怖かったです。

いくつかの駅を過ぎ、男性の語気はだんだんと激しくなってきました。母親らしい女性はじっと俯いて目を閉じています。目の前に立っていた男性は隣の車両に移りましたが、その横にいた若い女性はそのままでした。動くに動けない心理だったのかもしれません。男性は若い女性にも暴言を吐き続けていました。

誰もが彼を不快に思っていたでしょうし、怒りを感じる人も多かったでしょう。実際に男性を非難する言葉を母親の聞こえる大きさでつぶやく人もいました。

男性が隣の母親を暴言とともに強く揺さぶったとき、近くにいた男の人がその男性に声をかけました。
「お兄さん、大丈夫かい?」
その言葉は非難でも強い静止でもなく、相手を心配するような口調でした。
私にはそれがとても意外で、あまりにも温かく感じられたので、いったいどういうことなのかとても不思議に思いました。

今にも暴れだしそうになっていた男性は、その後は小さく何事かを呟くだけになりました。

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私は電車を降りてから保護者のカタリに考えを訊いたり、ミラと話したりしました。眠る前もそのことで頭がいっぱいでした。
どうしてあの男の人は誰もが敵視しているようなあの男性に対して、いたわり包み込むような言い方をしたのでしょう。
そしてどういうわけか、触れれば爆発しそうな状態にあったあの男性は、少しだけれどおとなしくなった。

カタリの見解では、声をかけたほうの男の人は、目の前に立っていた若い女性か、あるいは男性の母親と思われる人を守ろうとしたのではないか、というものでした。ミラも同じ意見でした。
男性を刺激して爆発させないように、穏やかな口調のほうが良いのだろうと。

私は半分納得しましたが、どこか腑に落ちません。
声をかけた男の人の口調は、穏やかというよりは、温かかったような気がしたからです。

私の疑問に対して、カタリは想像(妄想と呼んでいました)したことを話してくれました。
男性が給料や仕事、住んでいる家のことなどを口にしていたので、このような想像でした。

{ 人間関係の不得手なその男は働き始めてから職場でうまくいかなくなり、あるとき上司や同僚とトラブルを起こして仕事をやめた。いくつかのアルバイトなどをしたが長く続かず、やがて働くことができなくなった。父親は先立ったか離婚したか、男は母親と二人暮らし。生計は母親がパートをして立てている。そのような暮らしが10年以上続き、男はほとんど家から出なくなっていった。母親はそれでも息子を見放すことなく、辛抱強く回復を待った。どんなに大変でも息子のためなら苦労は苦労でなくなった。今日は東京で法事があり、久しぶりに親子二人で出かけた日で、たとえなじられようと、公の場で家庭の事情をわめかれようと、一緒に出かけられることがうれしかった。
いっぽう男は自分自身に目を向けていた。こんな境遇にある自分が不憫に思われた。社会に出ていきたくても痛みや苦しみが人一倍強く感じられて踏み出せない。そんな自分が憐れでしかたがない。生きることは痛みや苦しみばかりだ、と。自分を憐れに思うその気持ちと、そのような状況に陥った悲しみや怒りばかりが溢れ、制御できなくなった。それが実際の行動に表れて出るようになってきた。
そこに我々が乗り合わせた。}

というような想像(妄想)でした。
その話をしたあと、カタリはこう言いました。
「声をかけた男の人は、暴言を吐いていた男の人の情況を想像したんじゃないかな」って。

これは私にとって衝撃的なことでした。
あの状況で、ただ素直にあの男性の心を思いやって行動する人がいるなんて。

私はその日の夜と、次の日の夜、ずっとその人のことを考えていました。

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私もあの声をかけた男性のように、暴言を吐いていた男性の情況を考えてみることにしました。

もし痛みや苦しみばかりが目についたり感じられたりするとしたら、どのようにしてそのような心情になるのか。

いつだったかテレビで大学の先生が「我見」と「身見」について話しているのを観たことがあって、それを思い出しました。
ここで言う我見とは仏教用語としての言葉で、自分がかわいくてしかたがない・痛い思いをする自分がかわいそう、というような意味で遣われていました。

もし我見に支配されたらどうなってしまうのか。
「自分がかわいくてしかたがない、周りにある痛みや苦しみから自分を守ってあげよう。痛みや苦しみを回避して、痛みや苦しみを与える者を退治しよう。」
きっとそのようになっていくでしょう。

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何かを回避するためにはその対象を見つけ、見る必要があります。
車や自転車を運転する人があっちこっち見て、陰に隠れているものまで想像力をはたらかせて、危険を見つけようとするのに似ています。
危険ばかり見ようとし、周囲が危険だらけであることに気がつくことでしょう。

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痛みや苦しみももしかして同じようなことになるのではないでしょうか。
痛い思いをしないように、苦しい思いをしないように、大切に大切にすることで、周囲は痛みや苦しみだらけになる(周囲に痛みや苦しみばかり見つける)。

電車の男性のことを想像したら、そんなふうに考えるようになりました。
もし周囲が痛みや苦しみに満ちた世界に見えてしまったら、それこそ苦しみの中に浸かり込んでしまった情態でしょうし、痛みばかりを感じていることでしょう。

一見して周囲が思うような苦痛を避け続けている情況ではなく、苦痛の中に入り込んでしまっているのかもしれない。
そして苦痛から逃れようともがくほど、苦痛が増えていくのかもしれない。
そう思うと、非難の目を向けるばかりというのも、ためらわれる。

声をかけた男の人は、そういうふうに考えていたのかな。

もし希望ばかりが目に入ったら、痛みや苦しみも忘れてしまうほど軽くなるのかもしれない。

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苦痛を避け続けることも、怒りや憎しみに満ちることも、世間では非難の対象にばかりなるけれど、その人のもつ苦痛や憎しみを想像できたら、「大丈夫ですか?」って言えるのかもしれない。

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そんなことを考えました。