Mira&Luna's nursery lab

旅乙女と発明娘の子供部屋

ちょっとご機嫌斜めなミラは、ちょっとだけ悪いミラになります。

f:id:miraluna:20180430190439j:plain:w50 Mira Bitter

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雨とか曇りとか、肌寒いし。
今日もこっそり悪いミラになってカタリの手記を抜粋します。

ちょっと小難しいメモを見つけたので、それを写してみるわ。

『「創造」の一考察覚書』という昭和の人らしい題が付けられてる。

「創造」というものは、生み出すことではなく見つけることではないかと、本を読んでいてふと考えた。
 原子や分子の極小の世界が銀河や宇宙の極大の世界に相似しているように、錬金術師たちが「マクトゥーブ」と呼び一事を見て万事を知ることができると考えたように、真理はすでにそこにあり、種の中に設計図が内在しているようなあり方で「すでにある」のだ。てこや滑車は人間が創造したのではない。発見したのだ。
 創作としての創造もまた同じなのではないかとふと感じた。真理はすでにそこにあり、その一端を見つけ、描く。それが物語となり、絵画となり、音楽となる。それは見えていなかっただけで、初めからそこにあったのだ。人間による創造とは、すでにある真理(それは我々に内在されてもいるため「知っている」と言い換えることができる)を目に見える形として具現化することではないか。それは創造ではなく、発見なのだ。ある仏像師は、仏の形を作るのではなく、木の中に埋もれている仏の姿を掘り起こすのだと言っていた。もし仏を内在する木を、真理を内在する存在(人間)に置き換えて考えるのならば、真理はすでに心の中にあり(知っていて)、それを具体的なものとして表出する(思い出し、具現化する)と言い換えられる。それが人間の手による創造と呼ぶ行為なのではないかと。
 眠気にぼんやりとなった頭で、ふとそんなことを考えた。


追って考える。脳を物質的な視点から考えて。例えば音楽の創造。新しい曲が生まれ、こんな美しさもあるのかと知る。それは新しいメロディが生み出されたかのように。しかしそれを感受する側から考えてみると、その新しいメロディを美しいと感じる感受能力はすでに脳内に存在していたわけで、そのメロディを受け入れる準備がすでにできていたのだ。まるで新しいものが生み出されたのならば、感受する受け皿は用意されていない。つまりそのメロディをすでに前提して「美しいと感じる能力」をもっていたことになり、初めて聞いたそのメロディによって、その能力は役割を果し得たことになる。我々人間は、そのメロディの存在を前提していたのだ。甘さや苦さの存在を前提して、舌に味蕾を配するように。
人間の脳は後天的に受けた刺激(経験)によって世界を捉え構築するかのように見える。しかし実はすでに、経験していないこともすべて前提して(設計図を内在する種子のように)生まれてくるのではないか。甘いものを一度も食べたことの無い者にとっても、甘いものがこの世界に存在するということは前提されている。つまり知っている(知識としての「知る」と区別して)のだ。経験はそれを思い出す(「思い出す」という言い回しは語弊だらけだが気に入っているので使う)行為といえるだろう。創造もまたしかり。知っていることを思い出すこと、そしてそれを具現化するときに、それはあたかも創造しているかのように見える。なぜなら、経験上の(知識としての)知るという意味では未知であるから、肉体(脳含む)にとっては初めて触れることになるので生み出したように見えるから。

だそうです。
何のことやらさっぱりね。