Mira
たまには悪いことをしましょう。
カタリの手記をちょっとだけ、こっそりのぞき見してみようと思う。
どうしてそんなことをするのかって?
ちょっと悪いことをしてみたくなったのと、面白そうだからよ。
2013年の3月のページを見るわね。
「ぼくは世の中のことをみんな忘れて暮らしていけたらいいと思ってる」
(スナフキン)
いきなり引用ね。スナフキンの受け売り。
旅立ちは喪失であり破壊であり創造なんだ。
これはカタリの言葉ね。言いそう。
猟師をしているAは飲み屋のつまみに出た鶏肉さえも、骨を割って髄も残さない。あるとき一緒に食事をしていた雑誌記者の友達が言った。
「A、食べたきゃもう一皿注文してやるからさ、恥ずかしいからやめろよ」
Aは真面目な顔でこう言った。
「粗末にするほうがよっぽど恥ずかしい」
私はAの言わんとしていることが分かった。彼にとって雑誌記者の「恥」は恥ではなく、見栄や虚栄を損なったときの嫌な思いにすぎない。Aの言う「恥」とは、他者の命や尊厳を粗末にしたり、卑劣な生き方をするときに使う言葉だ。それは自分自身の価値問題であって、他人に決められる基準ではない。自分自身に誇りをもてるかどうかの問題なのだ。一方、記者の言った「恥」は自分本位であるのに価値基準は他人の目に委ねられている。
価値基準を他人の判断により、自分が嫌な思いをしたときに「恥」という雑誌記者
価値基準を自分に置き、他者を軽んじることを「恥」と呼ぶA
日常会話のさりげない言葉の中にも、その人間の生き様が現れることもある。
誰かの行動に感動したりすると、よくその話をしたりするけど、このときもきっとAさんの行動に心動いたのね。
ルナは潤いに満ちた感受性をもっているから、世界のすべてが印象的に入ってきて、体中で感じ取るのだろう。それが記憶の強さにもなり、聡明さにつながる。
ルナについてこんなふうに書いてる。
なんか、本当に悪いことをしている気分になってきちゃった。
もうちょっとだけ。
一つのことを別々の言語で話すのなら通じるけれど
別々のことを一つの言語で話したのなら、誤解を生みはしても通じはしない「別々のこと」というのが「別々の価値観」の場合も同じこと
話のすべてが鞄語となる
なんだかよく解らないわね。
取り返しがつかないことへの喪失感。生はその連続だ。
気が付けばその時間は取り返しがつかない。
取り返しがつかないけれど、取り返す必要もない、と思えるように日々を。
ああ、これも言いそう。
普段は恥ずかしがってあんまり言わないけど、頭の中はこういう感じだっていうのは分かる。松岡修造さんに似てる。
行き詰まったら動け。動けば何かしら得られる。
これもそう。きっとこれ、自分に言い聞かせてるのよ。
色は匂えど散りぬるを 諸行無常は諦めの境地だと思っていた。
しかしもしかしたら
「無常なる命を生きる」ことへの決意なのではないだろうか。
これ、こないだルナにとくとくと話していたわ。
ルナは他にやることがあったんだけど、ちゃんと最後まで聞いていた。偉いなって思った。
「まさかいかさま」はひっくり返してもやっぱりいかさまかどうかわからない。
こういうのもカタリは好きよね。私もこれは面白いと思う。
この辺でやめにしましょう。
悪いことはもうしばらくしなくても良さそう。
たまには悪いミラになることも必要よね。