Mira&Luna's nursery lab

旅乙女と発明娘の子供部屋

キャラメルがふたつくっついていたら、ひとつとかぞえてもいい?

f:id:miraluna:20180806220931j:plain:w80 Mira

「ひとつ」について考えてみました。

今回は
① どこからが「ひとつ」なのか
② どうして「ひとつ」であるのか
のふたつの内容を考えます。


① どこからが「ひとつ」なのか

ムーミン童話『ムーミンパパ海へ行く』の中で、ムーミンママが「みんな五つずつとりなさい」とキャラメルを出したとき、リトルミィが「もしキャラメルが二つくっついていたら、一つにかぞえてもいいんでしょ」と言う場面が出てきます。
私、このミィの言い分がすごく好き。

物はどこからが一つなのかしら。

ここに一つの「ロドナイト」という石があります。
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   →ルナが以前書いたロドナイトの記事

この石は「ひとつ」の石です。
でもルナが言う通り、すごい力持ちの人がえいって半分にしたら、石は「二つ」の石になってしまう。
石を細かく見てみれば小さな粒子の集まりだから、この石はたくさんの粒の集合体でもある。キャラメルがいっぱいくっついたような。
でもやっぱり、「ひとつ」の石でもある。
欠片、粒子、原子、……。割っていくとどこまでも細かくなって、
石、岩盤、大陸、プレート、……。基をたどればどこまでも大きなくくりになる。
いったいどこからどこまでが「ひとつ」なのかしら。

たぶんそれは、「ひとつ」と決めたところまでが「ひとつ」なんじゃないかな。

観察者にとって「ひとつ」と認識されたところがひとつ。
石と石でないもの、Aと非Aを分けたところを境界として、様々な物質や事象を分けて認識したとき、それは「ひとつ」となるのではないでしょうか。
すべてに境をつくらなければ一元論になるし、二つに分ければ二元論になる。このロドナイトを粒子の集合体と見なすこともできるし、ペグマタイト鉱床の欠片と見なすこともできる。
だからミィの言ってることは屁理屈なんかじゃないのよ、きっと。

これを石ではなく生き物に当てはめるとどうかしら。
どこからどこまでがひとつなのか、生き物の場合ははっきりしていそうなようだけど、どうかな。
ヤマタノオロチケルベロスは想像上の生き物だけど、一個体に脳が複数個ある奇形もあるでしょう。人の場合は人権や倫理や脳科学の問題として、どの部分のどの状態を一個人とするかによる。ヤマタノオロチは8匹なの? 1匹なの?
プラナリアというヒルみたいな生き物は切ると二匹になる。
アメーバのような単細胞生物は自己分裂して増えることができる。
生き物も多様な姿をしているから、どこまでが一個体なのかは決める者の認識によるんじゃないかしら。
脳死における「死」の問題が解決しないのも、認識する側によって「ひとつ(ひとり)」が異なるからだと思うの。

そう、ミィが二つくっついたキャラメルを一つと言うのなら、それはミィにとっては一つなのよ。
問題なのはそのことによってみんなのキャラメルがなくならないかどうか、ということね。


② どうして「ひとつ」であるのか

次の問題に移りましょう。
今度は認識の問題ではなくて、物理的な問題。
ここで再びロドナイトに登場してもらいます。
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このひとつのロドナイトは小さな粒子がぎゅっと集まった集合体でもあります。
それら小さな粒はどういうわけか集まり合っています。砂ならばさらさらと重力の方向へと落ちるでしょうし、宇宙空間のガスならば雲のように霧散するでしょう。でもひとつの石として集まり合っています。
きっと私の知らない重力や磁場やクォーク間の力なんてものがあるのでしょう。でもどうしてそれらは引き付け合おうとするのでしょう。どうして石はばらばらにならずに、ひとつであろうとするのでしょう。

慣性系は一定方向に動いているときにはその方向へと進みますが、ひとところに留まっているときには留まろうとする力がひとつの慣性系となりますね。その留まろうとする力と、一つの石がひとつであろうとする力って、原理は同じなんじゃないかと思うんです。
Ein Stein が Ein Steinであろうとするように、 A Stone は A Stoneであろうとし、ミラはミラであろうとする。

つまり「ひとつ」であろうとするから「ひとつ」であるんじゃないかな。
と、考えました。
トートロジーになっちゃったかな。